師
「手を尽くしていただきまして,ありがとうございました。」
それが,Nさんの最初の言葉でした。
Nさんは,私よりずっと落ち着いていました。
Nさん宅のジャックちゃんは,9歳のジャックラッセルテリア。1ヶ月くらい前からなんとなく元気が無く,最近は食欲が落ち,ここ数日は呼吸が荒いということで来院されました。
X線検査では,肺全体に小さな病変が多数認められ,感染症,免疫介在性疾患,腫瘍性疾患などが考えられました。白血球像では,慢性炎症性パターンを認めるものの,感染を示唆する所見がないことから,抗生物質の試験的投与は適切ではないと考えられました。さらに診断を進めるために,気管支肺胞洗浄検査を推奨しました。気管支肺胞洗浄とは,全身麻酔下で気管の中に細い管を入れて肺の深部まですすめて,生理食塩水を注入後,回収して,回収液の細菌や真菌の培養,ウイルスの検出,腫瘍細胞の検出,炎症細胞の検出を行う検査です。
抗生物質による診断的な治療,続けて免疫抑制薬による内科療法を考えていたNさんでしたが,私が確定診断のための検査を強く勧めたため,一晩考えて,ご連絡を下さいました。
ジャックちゃんは,全身麻酔下で肺胞洗浄が行われました。数回の洗浄の後,急激に心拍数が低下し,できる限りの蘇生処置を行いましたが,そのまま永眠しました。
「申し訳ありません。私の力不足です。」
どんな理由にせよ,最悪の結果でジャックちゃんをお返しすることになりました。私には,ただ,頭を下げることしか出来ませんでした。
「いいえ,相当悪かったのに,見捨てないで手を尽くしてくださって,本当にありがとうございました。」
いつもと変わらない,落ち着いたNさんの言葉は,私だけでなくその場にいたスタッフの心の中にも,水を吸うスポンジのようにしみ込み,それが熱い雫となって,今にもこぼれ落ちそうでした。
原因究明のために解剖させていただくことをお願いすると,Nさんは,すぐに承諾してくださり,変わらぬ歩幅,変わらぬ姿勢で帰りました。
私が,Nさんと同じ立場だったら,同じことを言うことができるだろうか。私には,自信がありません。頑張って言えたとしても,悲しみをマスクした言葉では,深く届くことはないでしょう。Nさんは,私の想像を超えるような経験を,何度もされてきたのだろうと思います。刻まれた皺,穏やかで深い瞳,暖かな温度をまとった芯ある声を思いだす度,人生の先輩の背中は,追い続けても届くことはないのではないかと思うほど,遥か遠くにいます。
Nさんは,小児科のドクターです。