抱擁
普段触ることのできない動物に触れることができる場合,その動物が弱って抵抗する力が無いことを意味します。
Nさんが,黒い被毛の猫が動けなくなったところを保護して,来院されました。クロちゃんという名のその猫は,Nさんが食事を与えているものの,普段は触ることができない子でした。
身体検査をすると,腹部の皮膚から膿が出ており,体温が低下していました。
化膿性疾患は炎症の結果,体温が上昇するのが普通で,体温の低下は,病原体に身体が負けている危険な状態であるといえます。
クロちゃんの状態はかなり悪く,治療しなければ助からないものの,治療しても厳しい結果が予想されました。例え快方に向かったとして,クロちゃんの性質から,その後の治療が可能かどうか。
それでも,Nさんはできるだけの治療を希望されました。そして,元気になったら自宅で看てあげたいということでした。
クロちゃんは入院治療を行うことになりました。
精査の結果,外傷が腹部を貫通し,細菌感染が腹腔内に及んでいることが分かりました。血液検査を行うと,貧血があり,白血球数が低下し,敗血症の状態にあると考えられました。
クロちゃんは,輸血,点滴,抗生物質,腹腔内洗浄による徹底的な治療を行いましたが,翌日,亡くなりました。
お迎えにこられたNさんは,取り乱すことなく,努めて淡々と説明を聞いてくださいました。
そして,冷たくなったクロちゃんに,無口なNさんがポツリと言いました。
“初めてお前を,抱くことができたね。”