成熟
“先生,今の音なんですか?”
“わんちゃんの声なんですよ。獣のような赤ん坊のような,犬の吠える声には聞こえませんよね。”
“えー,どうしたんですか?”
診察室で,遠くから聞こえるなんともいえない動物の声に,初めて聞く方は,皆驚かれます。
Sさん宅のジュディちゃんは,17歳の柴犬。目はだいぶ昔に見えなくなり,背中は丸くなり,くるくる同じ方向に回転しながら歩き続けます。何か要求があるか,そうでなくても 吠え続けることがあります。その吠える声は,犬らしさが消え,動物の咆哮といった様子です。
ジュディちゃんは,とても大切にされ長生きした結果,肝臓や腎臓などの内臓よりも,脳の老化が進みました。
認知障害は,柴犬や日本犬のMix犬種に多く認められる,脳の老化の症状です。認知障害を起こした犬自身は,何も辛いことは無く,そこまで元気でいたこと自体,ハッピーな証拠ですが,家族の方は精神的に肉体的にも参ってしまうことが少なくありません。
Sさんも,夜中はジュディちゃんに何度も起こされ,相当お疲れのはずですが,疲労を全く感じさせない凄いご婦人です。週に数回はジュディちゃんを病院に預けて,習い事や息抜きをされています。
ダンスの練習に行かれた日は,
“昨夜はジュディに何度も起こされたから,お稽古がきつかったワ。”
お迎えが遅くなった時には,
“ダンスの仲間と食事だったのよ。ワイン飲んできちゃった。”
ある夕方のお迎えの時には,
“これから主人に食事に誘われているの。”
人生を楽しむ達人のSさんは,いつも美しく輝いていて,タフな老犬の介護さえも,楽しんでいるようにみえます。
“ジュディ,待ってた?ちょっと歩いて帰ろうか。”
お迎えにきたSさんの声を感じるのでしょうか,ジュディちゃんが頷いた気がしました。
成熟した二人の関係は,とても美しく,いつまでも見守っていたい,そんな気持ちになるのです。