春風
“先生,私もう泣きません。”
待合室に座ったFさんは,そう言ってまぶしいくらいの笑顔を見せてくれました。その声は,雪を溶かす春の風の様でした。
Fさん宅のそらちゃんは,生後7ヶ月の雄猫。半年ほど前に交通事故にあい,初めて来院されました。軽度の骨盤骨折により,後肢の不完全な麻痺が見られましたが,支持療法により改善し歩けるようになりました。しかしその1ヶ月後,横隔膜ヘルニアを発症したのです。
横隔膜ヘルニアとは,胸部と腹部を隔てる筋肉が事故などの衝撃で損傷し,腹腔内の臓器が,胸腔内に進入し,呼吸困難や臓器の障害をもたらす病気です。
手術により,臓器を元の位置に戻し,破れた横隔膜を修復しました。しかし,捻じれてダメージを受けた臓器の傷害が強く,最善を尽くしましたが,助かりませんでした。
まだ7ヶ月のそらちゃんを,突然失くしたFさんの悲しみは,とても大きかったに違いありません。それを思うと,治療に当った私達の心にも,冷たい鉛が消えることはありませんでした。Fさんの声を聞くまでは。
“先生,私もう泣きません。”
きっぱりと言われたFさんの腕の中には,新しい子猫が,しっかりと抱かれていました。