言葉
いつまでも心に残り,消えない言葉があります。ふと思い出して,心の琴線を弾く素敵な人の思い出があります。
Nさん宅のらんちゃんは,18歳のトイ・プードル。らんちゃんは,重度の心臓病があり,長く心臓薬を飲み続けていました。おしりの筋肉は弱くなり,腸がおしりの皮膚の下に飛び出しています。歯石は重度で,精巣の大きさは左右差があります。数ヶ月前より認知症が進み,うまく起き上がることができません。調子の良い日は歩いて,自分で食事を取ることができるそうです。
そんならんちゃんを,長く支えて来られたのは,私の両親より年配かと思われるN夫妻です。Nさんは,2週間ごとに処方の心臓薬を一度も忘れることなく来院されて,らんちゃんの近況を報告して下さいました。いつも丁寧で温和なNさんは,正に紳士と言う名がぴったりの,そんな人です。
ある日,らんちゃんが前日から下痢を起こし,ぐったりとして来院されました。横たわったままで,意識の低下が見られます。その様子から,非常に危険な状態だと一目で分かりました。
診察台の上で,らんちゃんの呼吸は,止まろうとしています。
“蘇生処置を行いますか?それともこのまま見送ってあげますか?”
少しの間の後,Nさんは私の目を見つめ,はっきりと言いました。
“はい,このままで。”
“どうぞ,抱きしめてあげてください。”
らんちゃんは,Nさんの腕の中に戻り,最後の息をし,静かに眠るように旅立ちました。
“ああ,私もこんな風に逝きたいなあ。”
らんちゃんを抱きしめたまま,Nさんから搾り出た声。
寄り添うNさんの奥様から,大粒の涙がこぼれ落ちました。
その後のことは,今はもう記憶が定かではありません。でも,あの日のNさんの言葉は,時折,私の中にやってきて,せつない気持ちになるのです。