願い
Wさん宅のゆきおちゃんは,11歳のポメラニアン。
食欲不振で来院されました。
精査の結果,脾臓に腫瘤があり,中等度の貧血を生じていることが分かりました。
“俺,もう長くないんです。癌があるんですよ。手術はしないって決めたんで,痛みどめだけ飲んでるんです。
俺は死ぬけど,こいつだけは助けてやってくれませんか”
Wさんがサラッと言った告白は,あまりにも衝撃的で,
診察室で,適切な答えを出すのは,不可能でした。
Wさんがいなければ,ゆきおちゃんが生きていけるでしょうか。
それを言って,Wさんの決意が変わるとは思えませんでした。
Wさんの生き方に,私が口をはさむべきではないのです。
Wさんと共に,ゆきおちゃんにできる限りの治療を行うことしかできません。
脾臓の腫瘤は,良性のものが1/3で悪性のものが2/3といわれています。
良性のものは,切除で完治します。
良性のものでも,容易に出血し,出血性ショックに陥ることから,切除が推奨されています。
悪性のなかの2/3ほどは,血管肉腫で,殆どは発見時に転移しているといわれています。
それゆえ,手術が成功しても,数カ月で死にいたります。
悪性腫瘍は,突然血栓を生じて,DIC(播種性血管内凝固症候群)を生じることがあります。
DICは,多量の血栓によって,臓器がダメージをうけ,続いて出血傾向となる状態をいいます。
DICになると,死は確定的です。
また,悪性腫瘍が,免疫異常を招き,赤血球を破壊することがあります。
急激な貧血を生じて,死に至ることも少なくありません。
良性か悪性か判断する方法として,無麻酔下で細い針を刺して,細胞を採取して評価する方法があります。
この検査では,悪性の細胞が採取されれば,悪性と言い切れますが,悪性の細胞がとれなかった場合に,良性と言い切ることはできません。
また,出血しやすい脾臓の腫瘤に対して,針を刺すことがリスクとなるため,通常は,切除後病理組織検査により確定診断をつけることが多いです。
ゆきおちゃんの場合には,中等度の貧血と慢性の食欲不振という症状が,悪性腫瘍の存在を強く示唆しました。
良性腫瘤が,これらの症状を起こすことは稀だからです。
ゆきおちゃんの脾臓の腫瘤は,悪性腫瘍の可能性が高く,手術が成功しても,術後にDICを生じることがあること,溶血性貧血を生じることがあること,術後数カ月で,転移性病変により死に至る可能性があることを,お伝えしなければなりませんでした。
それでも,Wさんは,ゆきおちゃんの手術を行う決意は,揺らぎませんでした。
ゆきおちゃんは,外科手術を行い,病理組織検査の結果は,やはり悪性腫瘍でした。
手術から4カ月たったある日のこと,Wさんが教えてくれました。
“今度,俺も手術を受けることになりました。万が一のことを考えて,里親も探さなきゃいけないんだけども。
こいつがいるから,もうちょっと頑張らないと。”
Wさんの新しい決意を,とても嬉しく聞きました。
もうすぐ,Wさんの手術です。
治ってほしい。
生きてほしい。
ゆきおちゃんには,Wさんしかいないのだから。