想い
「先生,初診の方の診察お願いしまーす。」
心なしか元気の無い,看護士の声。
さっと初診ファイルに目を通すと,安楽死を希望と書いてありました。
15歳のオスのMIX犬。会社の事務所で飼われているタローちゃん。以前のように元気に走ることはできず,寝てばかり。事務所に訪れた人には,かわいそうにと言われ,みるにみかねて,安楽死をして欲しいということで,お世話をしている社員の方が連れてきました。
一通りの身体検査を終えて。
タローちゃんは,食欲があり,排便や排尿も問題ないのですね。白内障があり,視力が衰えていますね。突然,咬むようなことがありませんか。声をかけながら,優しく体を触ってあげてください。急に顔を触ると,ビックリして咬んでしまいます。
ふらつきは,老犬なら関節炎があって当然ですし,加齢性の神経細胞の減少によるものなのかもしれません。皮膚の張りから,軽度の脱水がありますから,缶詰に水を加えたものを与えて,水分を多く与えるようにしましょう。
安楽死を行う上で,必要な3つの条件があります。
1つは,ペットオーナー自身の精神的,肉体的または経済的な理由により,治療を続けていくことが難しいこと。
2つ目は,ペットの強い苦痛が治療によっても持続すること。たとえば,吐き続けたり,呼吸困難が続くのは,非常に苦痛であるといえます。
3つ目は,獣医学上,その疾患を治癒することが困難で,どんな方法によってもペットの苦痛を取り除けないこと。
今日の身体検査では,少なくとも2番目の継続する本人の苦痛は,否定できますし,3番目の獣医学上の理由も否定します。
どんなに頼まれても,私はタローちゃんを安楽死することができません。
15歳という年齢は,人ならば80才近い年齢です。よくここまで育ててくれました。年をとったら,人でも犬でも歩くのは難しくなります。以前のように走り回ることはできません。寝てばかりいるタローちゃんを可愛そうと思う人もいるでしょう。
この体を洗ってあげてください。泥を落としてあげて,ブラッシングをしてあげてください。
一番大切なことは,薬を飲むことではないんです。タローちゃんは,かわいそうなんかじゃない。年を取るまで飼い続けたことを誇りに思ってください。
年老いた犬を大切にすることで,タローちゃんは,また会社の看板犬になります。タローちゃんの役割は,まだ終わっていませんよ。
一言も話さず,静かに聴いていたAさんは,私の話が終わると同時に,電話をしていました。
「社長,タローは,安楽死しなくていいそうです。はい,まだまだ元気だって先生が言っています。どこも悪いところなんてないそうです。そうです。歩きます。病院の中まで自分で歩いたんですから。先生が言うように。俺もそう思います。わかりました。」
Aさんの声は,震えていました。そして途中から力強くなり,最後は,弾んでいました。
「素晴らしい社長です。良い会社ですね。
また,本当にみることが辛くなったら,いつでも来てください。」
Aさんがタローちゃんを連れて病院に来ることは,二度とないと想っています。
それと,どこも悪くないとは言っていませんが,まあ,今回は目をつぶっておきます。